GIGAスクール構想により、生徒一人ひとりにタブレット端末が配布され、学校現場のICT環境は劇的に変化しました。しかし、肝心の「教師のデジタル化」は、思うように進んでいないのが現状です。 なぜ、教育のプロである教師たちが、デジタル化の波に乗り遅れてしまっているのでしょうか?その背景には、単なる「やる気」や「スキル」の問題だけではない、構造的な課題が潜んでいます。

1. 圧倒的な「時間不足」と「業務過多」

最大の要因は、教師がとにかく「忙しすぎる」ことです。 授業の準備、部活動の指導、保護者対応、事務作業......。日々の業務に忙殺される中で、新しいデジタルツールの使い方を覚えたり、授業への活用方法を考えたりする時間を捻出するのは至難の業です。

「便利になるのはわかるが、覚えるまでのコストが払えない」 これが多くの現場教師の本音ではないでしょうか。DX(デジタルトランスフォーメーション)は、導入初期にこそ学習コストがかかります。その「初期投資」をする余裕がないほど、現場は疲弊しているのです。

2. デジタルリテラシーの格差と研修の不足

教師の年齢層やバックグラウンドによって、デジタルリテラシーには大きな開きがあります。 若手教師はデジタルネイティブで抵抗がない一方、ベテラン教師の中にはキーボード入力すら苦手とする人もいます。

しかし、学校現場では体系的な研修が十分に行われていないケースが多々あります。「詳しい人が教える」という属人的な対応に頼りがちで、特定の「デジタルに強い先生」に負担が集中してしまう悪循環も生まれています。

3. 「紙と対面」への根強い信仰

教育現場には、「手書きの温かみ」や「対面での指導」を至上とする文化が根強く残っています。 「連絡帳は手書きで書くべき」「欠席連絡は電話でするのがマナー」といった慣習が、デジタルツールの導入を阻む心理的な壁となっています。

もちろん、対面指導の重要性は否定できません。しかし、事務連絡や単純なデータ処理まで「アナログ」にこだわる必要はないはずです。この「手段の目的化」が、効率化を妨げる一因となっています。

4. システムの使い勝手の悪さとインフラの不備

導入されているシステム自体に問題があるケースも少なくありません。 「校務支援システム」と「学習系システム」が連携しておらず二重入力が必要だったり、セキュリティが厳しすぎて使い物にならなかったり......。 「デジタル化したらかえって手間が増えた」という失敗体験が、教師たちのデジタルアレルギーを加速させています。

結論:教師を「楽」にするためのデジタル化を

教師のデジタル化を進めるためには、「デジタルを使え」と迫るのではなく、「デジタルを使えばこんなに楽になる」という実感を持ってもらうことが不可欠です。

まずは、採点業務の自動化や、欠席連絡のアプリ化など、教師の負担を確実に減らせる部分から着手すべきでしょう。 「生徒のため」だけでなく、「教師自身の働き方改革」のためにデジタルがある。その意識転換こそが、真の教育DXへの第一歩となるはずです。

教科の再編

技術・家庭科を分割し、技術科と家庭科に分け、技術科を情報・技術科(仮称)にするという。

そうすると、独立した教科になるので、国社数理英と音美体を含めて、評定を出す教科は10教科になるわけですね。技術と家庭は、得手不得手の傾向が異なるので、別教科にするのに反対する意見は少ないでしょう。強引にひとつの教科をして扱ってきましたが、成績をつけること以外は、別教科の扱い。異分野のものを合算して成績を出しています。

教科再編の波紋

さて、10教科になると、ある程度、学習塾などの対応で成績を上げることができる5教科となかなかそうはならない実技教科のバランスが変化することになります。「主要五教科」という言葉が学習塾を中心に使われています。入試の国社数理英が重要だという考え方です。生徒自身がこの言葉を受け止めてしまうと、実技教科を軽視してしまい、受験する段階で後悔することになるのです。それがさらに促進されてしまいます。

そうなると次に考えることは、音楽科と美術科を統合して、芸術科としてしまうことです。高校では、実際に芸術科として、音楽・美術・書道などがあるので、突拍子もないことではないでしょう。AIの登場で、次世代を生きる人間を育てるというのであれば、AIが進出して職業としては消えていく音楽・美術は縮小するのもやむなしです。

拙速なAI教育への疑問

なにより、そもそもAIのことを中学校の授業で扱うというのは、とても違和感があります。日進月歩で進化している最中なので、新学習指導要領がスタートするころには、AIの状況はガラッと変わっているはずです。

現状の技術分野でも、「ネットワークを利用した双方向性のあるコンテンツのプログラミング」や「センサーなどを用いた計測・制御システムのプログラミング」という実際のIT現場では役に立ちそうもないことが扱う内容の主軸となっています。

AIを中学校の学習内容にするには、どうしたらいいのか。AI活用は言語化だと思っています。言語化は、数学の文章問題や国語や英語を学ぶことで力がつくと思っています。「問いを立てる力」は国語や社会の読解・探究活動で、「論理的思考力」は数学や理科で、それぞれ中核的に扱われています。AIを題材に学習する意味がわかりません。AIを使いこなす上で、自分の意図を正確な言葉で表現する力は不可欠です。

AIの特性も日進月歩なので、教科書の内容にいれるのは非常に困難だと思います。学習指導要領の改訂サイクル(約10年に一度)とAIの進化スピードの乖離は、教育現場が直面する極めて深刻な問題です。

「キーワード先行」の教育が抱える問題

学習指導要領をつくるための専門家会議では、なにか新しいキーワードを掲げて、キーワードから組み立てようとしているように感じます。前回のプログラミング教育もそうでした。内容が後手になっています。今回も今話題のAIというキーワードを使っているだけではないでしょうか?前回のプログラミング教育のように、理想だけが先行し、現場は「お手上げ」のまま放置される、という事態を招いてしまいます。

いろいろな業者がそれっぽい教材を開発し、教材として存在しているから、学習指導要領に書かれていることはちゃんとやりましたよ、という足跡作りはできます。でも「それが生徒の本当の学びや能力の育成につながっているかは、まったく別の問題だ」ということです。学習指導要領という「お題」に対して、業者提供の教材を使うことで、学校も教育委員会も「指導要領に沿った教育は実施した」という形式を整えることができます。

本当に重要なのは、そのキーワードを「どう教育に落とし込み、現場で実践可能な形にするか」です。その具体的な設計がなければ、今回もまた、現場を混乱させるだけで終わってしまうのではないか。

観点別評価の大転換

集まったメンバーで、こんな重要なものがガラッと変わってしまおうとしている。問題点は50年前から教育現場ではわかっていたことなのに......。

次期学習指導要領の評価 研究会が知識・技能に絞る提案
https://www.kyobun.co.jp/article/2025082803
文科省が次期学習指導要領の評価で「主体的に学習に取り組む態度」の目標準拠評価をやめる方針には一定の評価をしつつも、「思考・判断・表現」も客観的な評価はできないとし、さらに踏み込んだ見直しが必要だとした。

観点別評価は、昭和55年(1980年)の学習指導要録改訂で導入されました。

勉強ができなくても「関心・意欲・態度」を評価して、評定に加えていこうという趣旨でした。4つの観点の最初に位置づけられ、重点的に評価していこうという雰囲気でした。

1. 関心・意欲・態度
2. 思考・表現
3. 技能
4. 知識・理解

最初は、定期テストなどのわかりやすい評価項目を集計して、評定を計算したあと、1と2の観点別にABCをつけていました。コンピュータが導入される前なので、複雑な計算はできません。

そのうち、観点別に計算したあと、評定を算出する方向になっていきました。このときすでに「関心・意欲・態度」は数値化するのは難しいと、4つの観点の割合を変えて、1と2は割合を下げて計算するようにしているのが現状でした。

その後、平成30年(2018年)の学習指導要領改訂により、観点は3つに整理されました。「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」になりましたが、この3つは、同じ割合で扱うように求められていました。つまり、4つの観点のときより、自由度が低くなります。

「知識・技能」「思考・判断・表現」は主にテストで、「主体的に学習に取り組む態度」はテスト以外という制約もありました。テストの点数を重要視したいとしても、100点のテストに対して、「主体的に学習に取り組む態度」が10点分数字を用意した場合、その10点を20倍にした数字を評定計算に使うわけです。明らかにおかしい。

「主体的に学習に取り組む態度」は、授業の振り返りやレポートで評価されます。つまり、言語化が得意な子どもが良い点数となります。

「テストは良いのにどうして?」という疑問には「観点が3つあって...」と説明するわけですが、わかってもらえない保護者がいるのです。当然ですよね。教師もわかっていないので。

評定計算を複雑化し、意図していないはずの評定を確定評定としている今の状態はさっさと廃止すべき。定期テストは何点、小テストは何点、レポートは何点と単純に集計したほうがすっきりします。

評価項目がこれだけあって、全部合計すると何点になるから到達度はこうですとなれば、単純明快で、しかも評定している先生にとってもわかりやすい。

観点別に数値化ができるものを作り出し、観点別に得点を集計し、観点別の到達度を合計。最初のテストの点数が評定にどのような割合で関与しているかを把握している先生はいないのではないかと思います。コンピュータが計算してくれますから。

間違いなく入力しているかのチェックはしますが、計算過程の計算式が適切かはチェックしません。評定の計算が複雑なので理解できないのです。ブラックボックス化の諸悪の根源が、この観点別評価なのです。

次期学習指導要領は、2030年度となるようなので、「失われた50年度」となるわけです。ずっと学力とは違う観点の数字がノイズとして入り込み、みんなでモヤモヤしながら成績を付けて、子どもや保護者はもらった成績にモヤモヤするわけです。そして、日本の学力が低下しているとなげく。半分以上を学力とは関係ないところから評価しているので、そりゃ当たり前なのかもしれません。

しわ寄せは常に教育現場に。

未来の先生の仕事

Microsoft(マイクロソフト)の研究者たちが発表した新たな研究
https://arxiv.org/pdf/2507.07935
の中で、「AIの影響を強く受けやすい職種」や「AIの影響を受けにくい職種」が紹介されています。

これをAIで教師について質問してみると

教師・教育職の今後
• AIによる自動化・支援が進む分野
  • 授業資料の作成、テストの自動採点、個別学習サポート、情報提供などはAIが得意とし、教師の業務の一部はAIに置き換わる可能性があります。
  • オンライン教材やAIチューターの普及により、知識伝達型の授業は自動化されやすいです。
• 人間教師が不可欠な分野
  • 生徒の個性や感情に寄り添った指導、モチベーション管理、対話的な学び、社会性や倫理観の育成などは、AIでは代替しにくい部分です。
  • 学校現場でのトラブル対応や保護者・地域との連携なども人間教師の重要な役割です。

となり、

具体的に考えられる変化 
• AIが担う業務
  • 授業資料の自動作成
  • テストや課題の自動採点
  • 生徒ごとの学習進捗管理や個別指導の一部
  • 事務的な連絡や情報提供
• 人間教師に残る・増える業務
  • 生徒の心身のケアや相談対応
  • 保護者や地域とのコミュニケーション
  • 学級運営やトラブル対応
  • 生徒同士の人間関係の調整
  • 学校行事や課外活動の企画・運営
  • 倫理観や社会性の指導

AIの進化で、本業と考えられていた授業に関しては負担が減る一方、生徒対応やトラブル対応の業務が重要になっていくという分析です。

精神的な負担が大きいといわれる教師の仕事は、ますます過酷なものになりそうな気配です。

しかも、授業への負担が減るとなれば、人員削減の根拠となるので、教員配置にも影響するでしょう。最小限の人員で学校を運営していかなければならないのです。

一生懸命勉強して大学を卒業し、カスタマーサポートのような仕事に従事するわけです。できればトラブル対応をAIで軽減してくれると助かります。

卒業式は誰のため?

「卒業式の主役は、あなたたち卒業生」とはっぱをかけられ、大きな声で返事をしなさいとか礼をしっかりしなさいと、何度も練習をして当日を迎えます。

ネットの書き込みを見ると、そんなガミガミ指導されて、疲れて返ってくる子どもの姿を見ると、なんのための卒業式なのかという感想を書き込んでいる人もいます。声が小さい子だっているし、礼が少しくらい揃っていなくてもいいじゃないか、とか、まるで来客者や保護者のための卒業式になっていると主張しています。

確かに「主役は卒業生」ということは、卒業式という舞台の役者という解釈になります。誰のための卒業式かといえば、観客である来客や保護者のためということになるでしょう。教師は、「今年の卒業式は良かった」と思われたいでしょうし、立派な姿で卒業していく姿を保護者に見てもらって、「この学校で良かった」と思われたいでしょう。

卒業式の計画や準備をするときも、どうやったら見栄えがするかと、保護者サービスも忘れません。卒業証書を受け取って振り返ったあと、一度顔を上げ、体育館の後ろをまっすぐ見てから、階段を降りるという指導をします。保護者のシャッターチャンスのためです。これはちょっと間違えると、降壇するときに階段を踏み外す危険性があります。さらに自席に戻るときも、わざわわ遠回りをして、保護者の近くを通って戻ります。これも保護者のシャッターチャンスのためです。

卒業証書を受け取るときの卒業生の表情は、非常にいい顔をしています。中学校生活の中で一番イケてる顔かもしれません。それを校長先生だけが見ることができるのは、もったいないと、校長の後ろにカメラをおいて、体育館のスクリーンに映すという演出をする学校もあります。カメラマンが、校長の斜め後ろからバシバシを写真を撮る学校もあります。しかし、壇上では、しっかりと自分と向き合い、卒業を噛みしめる瞬間。カメラがないほうが良いに決まっています。

コロナ禍で縮小した卒業式も、解禁されたということでコロナ前の形式に戻っています。つまり、卒業式のあり方を見直すということは一切されなかったわけです。送辞・答辞、合唱という基本スタイルが卒業式の姿ということです。ネットに愚痴をこぼしても、現場には伝わりません。学校に伝えても、ごく一部の保護者の感想で処理されます。

もちろんアイディアを駆使した独自の卒業式をする学校もあります。ただ、式の時間が長くなるので、力を入れていた先生が去るともとに戻ります。「働き方改革」です。

金融経済教育の充実

次期指導要領では金融経済教育の充実を 識者らの研究会が要望書

投資の意義や役割に関する学習を一層充実させるとともに、担当教員を養成する段階で経済学の知識を身に付けてもらったり、お金や金融などの知識を体系的に学べる教科の新設を検討

「日本ではお金の話はタブーと言われ、学校で教えてくれない」として、学校で教えるように要望する声があります。

そもそも「お金の話」とは何かという疑問がありますが、金融教育として「お金の使い方(ローン・リボ)」「資産形成」「金融トラブル」「保険」など、多岐にわたります。記事の中での金融経済教育の最終目標は、投資をすることのように思えます。裏でお金が動いている匂いがプンプンします。「朝の読書」とか、「1人1台の情報端末」とかと同様、対象者が多いので、お金がたくさん動きます。表向ききれいごとで始まるものですが、お金の話でお金を動かすのですからずいぶん直球ですよね。

「お金の話」には、クレジットカードの使いすぎによる自己破産なども話題に上がります。ただ、クレジットカードの話題は、すでに中学校の家庭科の中に含まれています。クレジットカードを使うメリット・デメリットの中で、使いすぎの話は含まれています。実際にクレジットカードを使うことができる年齢ではないので、自分のこととして捉えるのは難しく、記憶から消えてしまうのではないでしょうか。少なくともそういう知識が必要な人ほど。

この授業は、クレジットカードを使うメリット・デメリットを考えさせるのですが、最終的に「クレジットカードは危険です」という流れに誘導されます。なぜなら教科書にそう書いてあるからです。テストにも出題されるので、「クレジットカードは危険です」という意識でいないと正答になりません。

キャッシュレスとクレジットカードは切っても切り離せない関係ですが、クレジットカードの場合、デメリットを強調する授業となっています。だから、キャッシュレスを推めたいけど、キャッシュレスには抵抗があるわけです。投資に関しても、実際に学校で教えるようになると、デメリットを強調する授業となるでしょう。教えている教師が投資に無関心な人です。リスクを嫌うので、公務員になった人も多いです。

つまり、学校で金融教育をやっていないと声を上げて、現実に金融教育が取り込まれているのに、推進派の意図とは真逆の授業をしているので、金融教育をしていないように感じるという流れになるのでしょう。だから、教科の新設をして、目立つところに置いてほしい、となるのでしょう。

教科の新設とは、国語や数学のようにテストをして、評定がつく教科なのか、数字による成績がつかない道徳のような位置づけでしょうか。それよりも、「総合的な学習の時間」で扱う項目にするのが、現実的で、実現に近いと思います。それぞれの教科で学習する内容を横断的に展開していくのが「総合的な学習の時間」ですから、社会科・家庭科・数学など、さまざまな知識を総動員して「自己の生き方を考えていくための資質・能力を育成」していくことになるのではないでしょうか。

「総合的な学習の時間」で扱われないとすれば、よほどニーズを感じていないということなのではないでしょうか。投資やクレジットカードは、使わなければ得はしないけど損もしないです。知らないほうがいい、寝た子を起こすな。

USBメモリ紛失事件

学校のデータ流出事件が後を絶ちません。そのときにネット上のコメントで書かれるのは、「今どきUSBメモリ使っているの?」という驚き。役所の提出書類にフロッピーディスクで提出というのも驚きでしたが、USBメモリが使われるのには理由があります。

本来クラウドで管理されるはずなのですが、学校の場合は、クラウド上のデータには、職員室からしかアクセスできません。クラウドサービスは、URLでブロックされ、使うことができません。そのため自宅で仕事をした場合、そのデータファイルは自分の学校用メールアドレスに送るかUSBメモリを使うということになります。メールはファイルサイズが制限されているので、大抵の場合分割でもしない限り無理です。操作も煩雑なので現実的ではありません。

そもそも自宅へデータを持ち出すことに問題があるのは当然の話しです。しかし、教師は働き過ぎという名目で、早く退勤することが言われています。そうすると残りの仕事は自宅ですることになるのです。

クラウドが使えれば、物理的にどこかに落とすこともありません。USBメモリだから落としてしまうのです。学校のデータ流出事件で、不正アクセスでデータが流出したというのはほとんどありません。なぜならクラウドを使っていないからです。

個人情報をクラウドに保存することは、それ自体が問題です。個人情報を含まないものはクラウドで仕事ができるようにすればいいのですが、数々の事件が起きているため、教育委員会はデータ流出が起きないように制限をします。USBメモリも使えないようにします。

すると今度は、コンピュータ自体を持ち歩こうとするのです。つまり言葉のルールで定めてもダメなので、システム的にできないようにしなければならないということなのです。

最近は、生徒用に1人1台の端末が貸し出されていて、教師用にも用意されています。するとこの端末は授業用なのでクラウドが可能です。当然仕事用に使いだします。マル秘文書、個人情報などが満載になっている先生もいることでしょう。新しいデータ流出事件の幕開けです。

増える別室登校

何らかの理由で、普通教室に入れずに別室に登校することを「別室登校」といいます。原因はさまざまです。

保護者は子どもが学校に行けば安心します。家にいて学校に行っていないと不安なのでしょう。世間体かもしれないし、学校に行っていないこと自体が心配なのかもしれないし。将来どうするの? 進学はどうするの?

すると、保護者は学校に対して、「教室には入れないけど、どこか別の教室に登校して勉強できる場所を用意してほしい」と要求します。学習する権利があると...。別室は、登校しているので、不登校にはカウントされないというのも理由の一つでしょう。

最初のころは、学級担任が対応していました。保健室登校というのもありました。1人や2人ならいいのですが、人数が増えると保健室は通常業務ができなくなり、別室専用の教室が用意されます。そしてシステム化されます。最初は先生方を輪番にして、代わる代わる別室にいるようになりました。授業数が多いと問題になっている中で、さらに時間を割かれるわけです。

そのうちスクールカウンセラーが導入されますが、別室登校の人数は増えるばかり。そんな場所があるなら利用したい、となっていくわけです。別室利用は、別室利用がある生徒がいる学級から増えていきます。

勉強しなくても読書をしているだけで登校したことになり、保護者も安心します。勉強したいけど教室には入れない子どもも、勉強も学校も嫌いだけど学校に行けと言われる子どもも同じ部屋へ。

人数は増え、40人以上になります。教室のキャパシティを超えます。すると「別室は人が多くて落ち着けないので、別の別室を用意してほしい」という要求が出てきます。

実際に卒業式は、通常の卒業式のほかに、別室や不登校用に第2部の卒業式があります。第2部の卒業式もなかなか人数が多いので、さらに別の卒業式を用意してほしいと要望され、第3部、第4部、第5部と卒業式の日の午後は、何度も卒業式が繰り返されます。

学校に行くこと自体が目的になっているようで、フリースクールが出席日数にカウントされるようになりましたが、利用率は3%程度という数字もあります。学校からは紹介しづらいです。「学校はうちの子を見捨てるのですか?」となるからです。

勉強するなら家庭教師や通信教材もあるはずです。しかし、「学校に行けばタダなのに追加出費はおかしい。学校で勉強を教えてほしい」となるわけです。

基本は「学校が原因でこうなったのだから、学校でどうにかしてほしい」という考えです。

子どものことを考えている保護者は、フリースクールなど支援機関を自分で調べていろいろ見学して足を動かします。学校に行くこと自体が目的の場合、外部機関に興味を示しません。

高校進学率は97%を超えていて、普通に登校していれば高校に行ける、そして、お金を払えばどこかの大学に入れる。大学を出ればどこかに就職できるという妄想。自分の子どもには普通の人生を送ってほしいと思う気持ち。個性といいながら普通を追い求める矛盾と不思議さ。根底は変わりそうにもないので、別室の状況はきっと変わらないのでしょう。

音楽教育の実態

音大離れ

音大に進学する学生が減っている。少子化の中で、大学に進学する学生は増えているのに、音大は小規模化が止まらないらしい。日本の音楽大学は、就職につながらないのが原因か?

「YouTubeの広がりで、音楽に接する時間は増えているはずなのに、音楽教育が広がっていかない。習い事は習い事で終わってしまっている。小中高の学校教育で、もっとしっかりと音楽の深さを体験していく必要がある」と語っている音楽家がいます。ここでいう「音楽」はクラシック音楽ですね。

音楽を専門にしている人から見るとそうなのかもしれませんが、現実の学校教育の中は、音楽や美術の授業時数は減り、評定がついたときに、なぜその成績なのかという部分で、透明性がないと見られがち。その結果、少ない時間で、テストを実施し、わかりやすい成績の根拠を収集することに力を入れています。楽しむどころか、入試科目にもない教科で課題が増え、負担が増えているだけと感じる生徒および保護者が増えているような気がする。

音楽や美術は、その国や時代の豊かさの象徴。つまり、今はそういう時代ではないということなのかもしれません。経済的に豊かで、音楽を習わせて、音楽大学に通わせ、就職活動は考えなくてもよいという家庭が減っているのでしょう。

命令形の「すること」

能登半島地震で、NHKのアナウンサーが「今すぐ避難すること!!」と連呼し、必死に避難を呼びかけていました。緊張感のある切迫した状況を伝えるものとしてネット上でも評価されていました。一方、不快に感じた人もいるようです。

「○○すること」という表現は、日常的に命令形として使うのかというと、一般的ではありません。上司から部下に使う表現でもないし、親から子に使う表現でもありません。

「○○すること」という表現について、少しネットで検索すると、やはり一般的ではなく、かなり特定された場所で使う表現です。

この表現が使われる場所は...

そう学校です。

教師が児童や生徒に対して「明日までに宿題をやってくること!!」「友達とけんかしないこと!!」などと強い命令に使う独特の表現です。かなり上から目線。対象は子供です。そして、ヒステリックな印象を伴います。

なので、視聴者は、「今すぐ避難すること!!」と連呼するのを聞くと、児童生徒だったときに耳にしていた強い口調が潜在的にリンクして、人によっては不快感がつのるのではないでしょうか。それで、ネガティブな気分になったのかもしれません。

アナウンサーは避難することを呼びかけるために、意図的に使った表現なのか、自身の児童生徒のころの潜在的に耳にした強い命令表現として、ついつい出てしまったのかはわかりません。適切な日本語ではないのでしょうが、SNSでトレンドキーワードになったくらいなので、少なくともあの状況では適切だったと思います。

IQと「やる気」の研究

IQと「やる気」の研究 | WIRED VISION
PNASにこのほど掲載された研究は、IQスコアにおいて重要な役割を果たしているのは[知性というよりは]「モチベーション(動機、やる気)」であり、先述したような相関関係にも、それが関係しているのではないかということを示唆している。

IQが高ければ、より高い学歴で将来の経済状態もよくなると考えられていたのが、それよりもモチベーションが大きく左右しているのではないかという記事です。

学校の成績は、小中高と進むにつれて、変動していくものですし、成績が良ければ幸せになれるわけでもありません。高いモチベーションを持つことが、人生をより良くするものなのでしょう。

ちなみに、急にテストの点数が下がったときは、友だちや家族の状態が良好ではなく、短期的なモチベーションの低下、徐々に下がる場合は、学習に対する意欲が高くないなどの長期的なモチベーションの低下と考えることができるのではないでしょうか。保護者は「学習方法が合わない」などと、塾や家庭教師を考えがちですが、学習と直結したことを心配するより、子どもの気持ちをほぐすことに力を注ぐべきなのでしょう。時として、テストの点数は間接的に子どもの精神状態を示すバロメーターにもなるのです。

黙祷

卒業式の前に卒業式の練習の途中で黙祷をする慣例があります。

いつまで黙祷を続けるのか?
という生徒の素朴な疑問を考えてみました。

歴史の教科書に出てくる関東大震災は9万人以上の犠牲者。
東日本大震災は、1万5千人。阪神淡路大震災は6千人。
北海道胆振東部地震は44人。

○内閣府が東日本大震災の黙祷を呼びかけていた。ただし、10年が経過した2021年で呼びかけは終了。
○東北の自治体は、役所的には復興事業が終了している自治体も出てきている。
○なので、東北以外の地域では黙祷をしないところが増えている。
○しかし、東日本大震災は、原発の問題もあり、復興が終わっていないと感じる人が多い。
○北海道胆振東部地震は、死者が少ないせいなのか、内閣府も北海道も黙祷をお願いしていない。

なので、学校独自で自発的にやっていることと考えてもいいようです。あるいは市教委からの要請かもしれません。

ただ、地震の悲惨さを忘れるな!!といっても、そもそも知らない世代になっています。

地震大国日本としては、またそのうち大地震がくるのは避けられないので、地震は悲惨だということを知っていてほしいわけです。

知らない人は、黙祷を機会に関心をもったわけなので、とても重要なことだと思います。

阪神淡路大震災も北海道胆振東部地震も寝ているような時間帯に起きたので、発生時刻におこなわれる黙祷はできなかったんだと思います。現地の関係者以外ほぼやっていないと思います。

14時46分というのがちょうどやりやすい時間帯だというのもあるのだと思います。来年は土曜日なので、それ以降やらなくなる学校が増えるような気がします。

ちなみに震災の日時に黙祷をおこなう習慣は、関東大震災の1年後におこなわれた黙祷が日本で最初だったそうです。それでも2年目以降におこなわれた記述は、私が軽く調べた感じでは、ネット上には見つかりませんでした。

なぜ卒業式はめでたいか

卒業式が近づくと、この体育館の周りには、紅白幕が飾られます。
紅白幕ということは、めでたいということです。
もし悲しい行事なのであれば、黒と白の幕が使われるはずです。葬式のように。

でも、別れは寂しいかもしれません。
それでもめでたいというのです。

言うまでもなく、卒業して、希望あふれる未来に旅立つ節目の時なので、めでたいのですが、なぜ卒業がめでたいのかを、ネットで調べてみると、興味深いことが目に入りました。

東日本大震災も阪神淡路大震災も、卒業が近い時期に起きた地震や津波で、多くの犠牲者がありましたが、その中には卒業式の目の前にして亡くなった中学生がいたわけです。

当たり前のように卒業式ができること自体、大変めでたいと言える、と。

保護者が卒業式で涙を流すのは、なぜでしょう。

もちろん別れではありません。中には、中学校を卒業したら、家から出て寮に入って高校に通うという人がいるので、ちょっとさびしい人もいますが、基本的には、別れではありません。

やはり今まで育てた苦労を思い出し、その節目を迎えたことがめでたいのです。
嬉し涙です。

「活字離れ」がウソ!!

  • 書店が減ったが、小規模店から大規模店への転換があった。
  • 児童・生徒の一カ月平均読書量の推移(冊数)をみると、読書量はむしろじりじりと上がっている。
  • 活字離れを「一人あたりの本の平均購入部数が減ること」と定義すれば、ここ十数年は減っていない。
  • ただし、雑誌の場合は明らかに減っています。
(http://japan.cnet.com/sp/t_hayashi/35053789/ より)


電子書籍を含めると、売り上げは微増していて、青空文庫もあるので、明らかに読書離れはしていないことになります。印刷されたものを対象とする「活字離れ」が、仮に進行していたとしても、それは時代の流れと思っていたのですが、少子化を考慮したら「活字離れ」もしていないということに驚き。

書籍のネット販売をしている会社が推し進めてきた「朝の読書」運動は、ビジネスの匂いがプンプンする中、全国に広がりました。全国の先生方は、そのビジネスに無償でお手伝いしてきたということになります。

朝読書の効果は、「生徒たちの心が穏やかになり、不思議なことにいじめもなくなった。それに比例するように学力も向上した」と語られますが、さてどうなのでしょう? ビジネス面のメリットの割に、朝読書の効果が数字に現れているとは思えません。

気付けば雑誌も新聞も読んでいない。本を買ってくることもない。でも、以前より比較にならないくらい文字を読んでいる。活字離れという言葉は、お金を払って書籍などを購入する人が減ったということで、紙に印刷された文字を見ることは減ったけど、ネットを通じて文字を読んでいることが考慮されていない。

無料で手に入る情報で事足りるのに、わざわざお金を払って書籍を買うかどうか、ということで、一生懸命教育現場で読書をさせようとしたり、新聞活用の授業をしたりしても、購入者が増えることはほとんどないと思う。企業側が危機感を持たせて、どうにかしたいと考えているのかもしれないけど、活字離れの傾向は後戻りをすることはないのではないでしょうか。

職場体験などの補助費

学校の予算は厳しいものがある。そのため、講演会や職場体験でも相手先に支払うお金も出てこない。そんな中で実施していただいている講演者や企業の方々には、申し訳なく思うほど。時間を割いて子どもの指導に当たったり、飲食店では、調理の実習をしてくれたりといろいろサービス精神旺盛な企業もある。

職場体験では、地域の教育力というのを求めているかもしれない。しかし、タダでお願いして、いろいろ注文をつけるのも申し訳ない。教育委員会から「やれ」と言われ、やっていて、もちろん意味のあることは承知であるが、逆に残念なことに、やることがなくバックヤードで座っている時間が長かったという場合もあったりする。お荷物にしか思っていない人たちもいる。確かにお荷物なのだが。

修学旅行などの体験では、体験学習費として徴収することができる。ビジネスとして成り立っている感がある。職場体験には、なぜかお金の出所がない。補助金が出れば、何か変わるだろうか。費用がかかっているサービスをしてくれるところはその費用に充ててもらいたい。しかし、時間を割いて指導してくださった方に、そのお金は、手当として届くだろうか。指導するときの意欲になるだろうか。その辺りは、教師側からはわからない部分かも。でも、お願いしている分の対価はあって当然と思う。

新しい「ゆとり教育」

ゆとり教育といえば、授業数を減らし、生徒にゆとりを持たせるという意味で使われていました。しかし実際は、行事を減らし、一日の授業は増え、生徒も教師も、とにかく忙しい。何かゆとりだったのかよくわからない。

今度は「脱ゆとり」を掲げ、さらに授業を増やす方向。つまり、授業に「ゆとり」を、という方向。なるほど、確かに「ゆとり」。学校は、必修科目の授業を確保するために、さらに行事を減らし、簡略化していく。より生徒の心にゆとりが消えていく。

仕事の潤滑油

数年前、消費拡大をするために公務員の給料を増やしたことがありました。しかし、国民の何パーセントもいない公務員の給料を増やしても、目に見える効果はありません。

そして、今は公務員の給料はカット。教師ももちろん減らされています。給料が低ければ、良い人材は集まりません。バブル期の公務員と民間との差が顕著です。

さらに、給料が減ったことで、いつの間にか、「仕事の潤滑油」といわれる飲み会も、ないに等しくなりました。教師もチームワークの仕事。授業のない空き時間もそうですが、飲み会などの交流が教師間の信頼につながり、チームワークの強化につながります。生徒に対する『楽しい企画』というのは、教師自身が楽しい気分でないと生まれてきません。それが飲み会の時だったりすることもあるわけです。

その「仕事の潤滑油」がない今、教師間が疎遠になっています。悪循環に陥っているかもしれません。『楽しい企画』が減ってきて、正統派の真面目な企画ばかりが並んでくるようになります。正統派なので文句もないですが、面白みや工夫に欠けている場合もあります。

もちろん、このご時世なので、給料を増やせとは簡単にはいえません。給料カットはやむを得ない時期です。リーズナブルに「仕事の潤滑油」となるものを考えないといけないのでしょう。

いじめの原因はいじめられる側にあると思っている生徒(あるいは大人)は少なからずいます。実際、いじめられる人といじめられない人がいるのですから、何か原因があることが多いと思います。

しかし、そんなことを追求しても解決にならないことが多いです。

ケガをして松葉杖をついている人に、「あ、松葉杖だ。やーい」とバカにするのか、「カバンを持ってあげようか」と手を差し伸べるのかの違いに似ていると思います。

勉強ができない、運動ができない、ねたまれる材料を持っている...。いろいろあることでしょう。でも、そういう人にどういう接し方ができるかが問題。

ただし、いじめられる側の親が絡むと途端に難しくなります。解決を遠ざけるように子どもをかばうのです。過剰攻撃もあります。

いじめている側の親と話をすればいいのに、何が何でも学校を挟もうとします。そして、学校を敵にして、学校を攻撃します。学校は解決したいのは当然なのに、大人の話にならない。

いじめ、いじめと連呼しても、実はいじめじゃなかったり。「いじめている意識もなくいじめている」と叫ぶ。

いじめているとされる側に接触をしないように指導すれば、逆に無視されるようになったと、今度は集団いじめ疑惑。関わったら面倒なことになりそうだと周りも感じたら、そりゃぁ距離を置くでしょう。

しかし、難しいのは、いじめがおこなわれているのか、勘違いなのかの境目。四六時中生徒を見ているのではないので、判断が難しい。いじめなら徹底的につぶしたいのは、いじめられている親と気持ちは同じだと思います。

公立高生の退学率低下

「公立高生の退学率低下 カウンセラー増や少人数制が要因か」:イザ!
神奈川県内の全日制公立高校生徒の退学率が平成19年度から3年連続で低下したことが、県教育委員会の調査で分かった。定時制でも昨年から今年にかけて低下しており、県教委は「スクールカウンセラーの配置数増と、小人数制や習熟度別授業の導入が要因ではないか」とみている。
景気が悪く、公立指向。高卒でも大卒でも就職が厳しい時代。高校を辞めたら本当に仕事はない状態。以前は、高校を辞めてもどうにかなるという感覚があったのかもしれません。

受検時にやや余裕のある高校を受検する傾向も関係しているかもしれません。絶対評価になり、猛烈に勉強して少しでも良い高校に入ろうという競争心もなく、そのときの成績で入れる高校を高い意欲もなく受検。高校に期待することもなければ、入学後にがっかりすることもなし。退学をしようという意欲もなし。

意外と経済的な理由がないのが興味深い。

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