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2005年3月アーカイブ

相対評価から絶対評価に変わって、3年が経ったのかな?(4年かな?)
偏差値教育からの脱却だったのですが、偏差値と偏差値教育と相対評価は、微妙に違います。

偏差値は数学の統計用語です。身長・体重・知能などは、正規分布することが知られています。
学力も正規分布します。
分布のばらつきをもとに、平均値からどれくらい離れているかを数字にしたものが偏差値です。

ここまではいいのですが、当時は、コンピュータも普及していないので、計算が大変です。
平方根の計算がありますから。
そこで、200人、300人の少ない集団でも、「正規分布していると仮定」して、人数で上位何番目は偏差値が何点という簡易的な算出をするようになったのです。
この偏差値は、この時点で数学的な本来の偏差値ではありません。
そして、5段階評定の5は何人と人数で決められるようになったのも、コンピュータのない時代の簡易的な算出に基づくものです。
コンピュータが普及した現在は、数学的な偏差値の算出はほんの一瞬です。
相対評価を見直す前にすることがあったのです。評定算出の電算化です。
しかし、数学が苦手なのか、数学的なことは無視して、絶対評価に移行しました。

本来の偏差値算出では、評定の人数は不定です。
必ず1は何人つけるという制限はありません。
全く同じ得点で、一方は4で、他方は3になるというおかしな結果にもなりません。

そして、自分の学力を、順位ではない数値で、正確に知ることができます。
順位は落ちこぼれを生みますが、本来の偏差値は教科が違っても、あるいはテスト結果を時系列に並べても、きちんと比較できる資料になります。
自分の中の比較をする正確な資料となるのです。
安易に他人との比較ではない、きめ細かい指導が可能になるはずです。
所詮、母集団を元にした数字という人がいますが、現状ではもっとも正確に学力を示すものになります。
それ以上を求めるなら、毎回、全国一斉にテストをおこなうしかないです。

ところで、絶対評価は、正確にいうと相対評価同様、正規分布になるはずです。
日本全国の生徒を集計すれば、正規分布するように評定を決めなければなりません。
しかし、それは当然無理なので、到達目標を決めて、評定を算出するのです。
5や1に偏った場合は、到達目標の見直しがされます。
(そもそも到達度というのも絶対評価を実施するための苦肉の策だと思うんですがね…)

その辺りを勘違いしているのか、到達目標の設定を誤ったのか、5に偏った評定がされているのが現状です。
やはりボーダーラインにいる生徒には、一つ上の評定をつけてしまいますよ。
その結果、学力が落ちているのに成績だけが良くなっているという不思議な現象がおきています。
結局、絶対評価は、数値に意味がないですし、その数値の根拠が曖昧なので、保護者の方も納得しません。

また、職員室の話題で「5の学力は少ないが4の学力の生徒は多い」など、学校ごと、学年ごとに分布があり、教師は、それを感覚的に見抜いています。
ここで感覚的に感じていることは、実は、先ほどの数学的な偏差値による評定の分布に近いものになっています。
つまり、教師が納得する評定算出方法は、数学的にもしっかりしているものとして、すでに存在しているのです。

もし見直すなら、科学的にしっかりと根拠のあるものにしてほしいですね。
選挙の票稼ぎのような政治家が話し合っても、歴史は繰り返すだけでしょうが…。

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「ゆとり教育」を評価しない人が6割超える

学力低下を理由にする人が多いのですが、
話をややこしくしているのは、「絶対評価」が強制された影響もあるんですよね。
当時の新聞でも「全員に5も可能」なんてとんでもない見出しで紹介されました。

自分の相対的な位置がわからなくなり、学習意欲が低下したとも言えるんです。
評定は、甘くなった学校が多いので、上位生徒はたくさん5のいる中の1人になり、
下位生徒は、あまり勉強しなくても1にはならないのか、ってことになります。
でも、教室を見渡せば、自分がどのくらいの位置にいるかは、何となくわかってしまう。

高校入試では、自分の相対的な位置を正確に知ることができないので、
少し余裕のある高校を選び、さらに受験期の学習意欲も低下してしまいます。
人生のうちで、もっとも長期間にわたり勉強に取り組むのは、
受験勉強だと思うのですが、それがなくなってしまう。

詰め込み教育・偏差値教育をしないで、学力向上を図るには、
時間的な余裕が必要です。
土曜日が休みになった分、平日にしわ寄せがいったので、
放課後の活動や勉強会を開くことも厳しくなりました。
心のゆとりを生む行事もどんどん減らされ、追われるような毎日。
じっくり取り組むことができる長期休業も減らされる傾向になります。
まず、この辺りの時間的な余裕を解決しなければなりませんね。

そして、向上心を育てるカリキュラム。
偏差値教育を否定する人が多いのですが、何か向上したことの目安が必要になります。
絶対評価なのですから、100点満点の点数でもかまわないと思うのですが、
上位生徒と下位生徒が混在している中では、低い点数では意欲がわかないと思います。
基本コースの最低レベルをクリアする問題と応用コースのどこまで学力を上げるかの
ランクわけがあってもいいのではないでしょうか。
人間をランクわけするのではなく、内容をランクわけ。
中学生になれば、得意不得意は自分で判断できます。
自分の目標を持って、取り組むことができるカリキュラムは、わかりやすいと思うんですが。

つまらない話題ですみません。

小学校の時、「全くその通り」を「全-くその-通り」と読んだ友達がいて、教室内が「?」状態だったことがあります。「ぜんくそ」って何だ?

先ほど小説を読んでいて、「この先生きていく…」を「この-先生-きていく…」と読んで、「?」になってしまいました。

「ここではきものを脱いでください」パターンなのですが…。

ゆとり教育の象徴的なものに「総合的な学習」というのがあります。
教科書に載っていないことを総合的に扱い、「生きる力を育てる」というものです。

国際理解・福祉・情報教育などが具体的な柱と示されたものが、
何をしても良い状態になり、陰では通常の授業をおこなっていた学校もあると聞いています。

また、修学旅行や学校祭など、すでに総合的な力を要求される行事があるのに、
それは「総合的な学習」には含まれないという矛盾。

結局、教科書の中身は少なくなり、基礎基本が身に付かないから、
「総合的な学習」で応用というわけにもいかず、体験的なものが多くなりました。
施行前に実験的に取り入れた学校は、優秀な生徒が通う学校ですから、
素晴らしい実績を残すでしょう。それを普通の学校に入ってきたときは、
パニックでした。なぜなら、最近の生徒はじっと座っていることすらできないのですから。
通常の授業より、体験的な授業が増え、そして、小学校から「総合的な学習」をしているの
ですから、授業を受けるという基本的なことができなくなってしまったのです。

「生きる力を育てる」どころの話しではありません。
制度が先にあって、中身は現場で考えろって言っているみたいです。
その割りに教育委員会は、これはダメ、あれはダメとうるさいのです。

それから、選択教科は、個性を伸ばすためのもの。
とはいいつつ、「学校選択」という形で、通常授業に加えていた学校もあるそうです。

生徒個人の要望なんて聞いている余裕はありません。
先生の数は限られているので、学校として可能な教科数しか選択できないし、
内容は、決められています。決めないと収拾がつかなくなってしまうのは、
想像にたやすいでしょう。

せめて、高校の理系コース・文系コースみたいにきちんと教科書があって、
カリキュラムがしっかりしていないと、思いっきり手抜きもできます。
毎時間プリント学習なんていうのも珍しくありません。

ゆとり教育の根本的な問題。
教科書の内容を減らすこと。

20個教えることを10個に減らしたとします。
今まで20個のうち、10個しか覚えられない生徒が、
覚えることを10個に減らしたから満点になるかというと、そんなことにはなりません。
やっぱり半分なんです。
つまり、今まで10個覚えられたはずの生徒は、5個しか覚えなくなるのです。
なぜなら、そういう授業をするからです。
1つも覚えない生徒は、やっぱり1つも覚えないですし。

ゆとり教育の世代の方が、「生きる力」がないのは、
あちらこちらで言われていることです。
基礎基本の面で劣っているから、自信がないのです。
高度な社会になっているのに、人間は程度が低くなっていく。
将来の日本はどうなるんだろう、っていう不安が少子化を加速させる。

いじめやひきこもりがゆとり教育の結果かどうかはわかりません。
基本的に人間は、暇なほど余計なことを考えますからね。
忙しい学生ほど、清く正しくやっているじゃないですか。
少年犯罪は、知識の欠如から来るというのも関係ないわけじゃないかも。

週休二日制は、子供が休めば、必然的に会社も休みになるという発想ですが、
効果はあったんでしょうか。
公務員は週休二日制でいいよね、で終わっていないでしょうか。
増えた休みで、自己学習力が高まったとも思わないし。
格差が広がっただけかな。
まあ、エリートを育てようという裏の目的もあったようですから、
貧富の差が、そのまま教育の差になるのは、目的通りだったのかも。

ずっと教師をやっていて、入試の合否結果で不思議に思うこと。

秋の個人面談なんかで、高校のボーダーラインと成績を比べて志望校を決めますが、
3月の合格発表を終えて、合否を分析すると、
ボーダーラインのちょっと上の生徒が不合格で、
ちょっと下の生徒が合格する傾向があります。

ボーダーラインのちょっと下の生徒は、そのままでは合格しないので、
たくさん勉強しないと不合格という意識があります。
その結果、必死に勉強して、合格を勝ち取るのです。

そして、ボーダーラインのちょっと上の生徒は、一応合格ラインに入っているので、
手を抜くと不合格なのはわかっているのですが、身が入らないのでしょう。
その結果、不合格。

性格とかそんなのではなくて、きれいにその傾向がでるのです。
受験前の行動・表情でわかります。

でも、ボーダーラインから30点も離れていたら、どんなに必死に勉強しても
ダメなものです。限界というものがあります。

「ボーダーラインに入っているからといって安心しないでください」と、
上記の傾向を保護者・生徒共に力説しておくのですが、
今年もやっぱり同じでした。

「 このサイトは「Internet Explorer5.5」以上、もしくは「Netscape Navigator4.7」以上のブラウザで見ることをおすすめします。」なんて注意書きがありますよ。

今どき、Windows依存ですか。機種依存文字も使われているし、
HTMLの文法チェックでは、悲惨な結果に。

文部科学省

学校のウェブページの見本となるものになってほしいですね。

私たちが普通に使っている言葉で、「机間巡視(きかんじゅんし)」というのがあります。
基本中の基本的な言葉です。
授業中に教室の机と机の間を歩いて、生徒の様子を見ることです。
言葉としてはそれだけです。

でも、非常に重要で、理解度を把握したり、学習習慣の確認、アンダーアチーバーに対する補助など、やることはたくさんあります。
これを怠ると、教師主体の授業となり、自己満足の授業にしかなりません。

しかしながら、期間巡視をしていると、先生がそばを通り、落ち着いて集中できないと親から苦情が来たことがあります。困った親です。

調理実習で、紅茶を入れるとき、生徒が「ティーバック」と言う。
英語の時間、ファイブの次は「セックス」と言う。
「重要」という意味の「インポータント」になぜか反応してしまう。
男子生徒の頭の中はいったいどうなっているのやら。

TB(トラックバック)のことを「Tバック」と呼ぶブロガーもいるらしい。

眞鍋かをりのここだけの話 powered by ココログ: YHA YHA YHA

ここを参考に書いた記事ですが、眞鍋さんはトラックバックされた記事を全部読んでいるみたいですね。アダルトとかも混ざっているようですが…。

どんな先生が良い先生って言われるのかな?
・優しい先生
・親身になってくれる先生
・話を聞いてくれる先生
・怒らない先生

生徒の都合を聞いていたら、時間がいくらあっても足りない。
金八先生じゃあるまいし、どうでもいいところは編集でカットしてくれるわけでもないですし。

生徒にとって良い先生は、職員室ではダメ先生なんですよね。

よく見かける指導案として、「個性を重視し、選択できるようにした」などというのがあります。何かの課題に取り組むとき、選択肢があるというのは良いことですが、個性とは関係ないでしょう。「個性」とは、「他の人とちがった、その人特有の性質・性格」とあるのですから、生徒の数だけある個性には対応できません。授業で個性に対応すること自体ナンセンスだと思うのです。大抵、個性を重視することは、わがままを助長するもので、「個性」の意味を勘違いしているに過ぎません。

また、髪型や服装の自由が個性につながると主張する人もいます。これも「個性」の意味を勘違いしています。内面を磨かないといけないのに、外見にこだわってしまっています。さらに大抵、髪型や服装の自由というと、流行に流されるので、結局、没個性となってしまいます。個性と主張しつつ、自分を見失い、自分の存在すら見失う生徒も少なくありません。

制服は、個性を育てます。外見が一緒だから、内面の個性が重要になってきます。外部の人は、制服によって、同じように見えるかもしれませんが、内部の人は、すべての生徒を区別できます。

取材を受けたことがある人なら誰でも経験しているかもしれません。
取材で受け答えしたことが、きちんと反映されないんですよね。

高校時代に文化系部活動で全国コンクールで入賞したことで、取材に来たのですが、なぜか話がかみ合わない。自分の世界がまずあって、その裏付けに来ているみたい。だいたい記事のストーリーができていて、それから取材で言葉を拾っていく感じがします。だから、話をしていても、質問をよく間違える。「だから違うってば…」って言葉が思わず出てしまいそうになります。

2、3日後、その記事が新聞に載ったときは、あきれてしまいました。「だから違うってば…」ってところがそのまま。取材が全く意味がなく、記者の世界がそのままでした。そしてまるで「どうだ素晴らしいだろう!!」と言わんばかりに誉め称えているのですが、事実と違うのでちょっと困るんですよね。

先日、とあることで新聞記者が学校に取材に来たのですが、記事をみて、校長が「言っていないことばかり…」と激怒。単語だけ拾って、記者の都合のいいように文章を組み立てられたという文章。

ライブドアの社長も似たようなことを言っていますよね。長い記者会見で、ほんの一部の言葉が拡大解釈されるって。文字だけでなく、映像でもゆがめられるんですよ。マスコミは。

だから新聞を読むときも気をつけないとと思います。そういう点で、インターネットというのは裏事情も流れるので、情報操作の抜け道にもなりますね。もちろん裏情報が真実かどうかは、マスコミよりあやしいかもしれませんが。

公平であるべきのマスコミも、ニュースなどでアナウンサーが意見を言ったりしますよね。「ゆるせない」とか「雪が多くて大変だ」とか。逆の立場の人もいるし、検証や捜査が途中のものに関して安易にコメントするべきではないんです。

さらに正しい情報でも、変な誤解を与える取り上げ方をすることがあります。かなり昔ですが、岡田有希子が自殺したときに、最近若者に自殺が流行っているというニュースが連続し、「今日も自殺者が…」と毎日のように報道されていました。自殺は残念ながら結構あり、しかも5月は自殺者が多い月なんだそうで、例年の傾向と変わらなかったんです。

かと思えば、新しいビックニュースがあるまで、引っ張るケースもあります。「そのニュース、もうわかったよ」というものも「新しい事実発覚!!」としつこく引っ張ります。それでいて、別のビックニュースがあると、すーっと消えていく。マスコミが注目度を操作したいのでしょうか。ビッグニュースがなければ、どうでもいいことまでニュースになります。

その点でも、紙面や放映時間の制約がないニュースサイトは、そのまま事件の数だけ流せばいいので、ニュースがなければないでいいわけです。

最近の学校の校舎は、バリヤフリー化が進んでいます。バリヤフリーという言葉が一般的になる前からそうなっています。

なぜかというと、将来少子化で学校が統合し、その校舎が学校でなくなったときに、そのまま福祉施設に転用できるようになっているのです。

車椅子への対応は徹底していて、さらに階段の段差は低く、将来エレベータを設置するためのスペースもあります。どこかに使い道のない謎のスペースがあるはずです。

つまり、その学校を卒業し、遠い将来に再びその建物でお世話になるかもしれないということです。